一大決心をし美容師から再びスキーヤーに戻ったが、怪我や金銭的問題など次々と鈴木選手に試練が降り注ぐ。心が折れてもおかしくない状況に彼女はどう向き合い、何を感じたのか。
小学5年生の時にアルペン競技を本格的にスタートした鈴木沙織は、地元のスキー名門校に進学し、練習漬けの毎日を送る。しかし、高校最後の年に出場したインターハイでまさかの転倒。卒業後は美容師となるも、スキーを諦めきれず復帰を決意する。
超絶ジャンプに目を奪われ 新種目への転身を決意する
2年4か月のブランクはアルペン競技復帰を厳しくさせていた。大好きなスキーができるのなら種目は関係ない、どうせなら新しい競技に挑戦したいと考えた彼女は、パソコンで動画をチェックしていた時、フリースタイルスキー競技の一つ「スロープスタイル」の辻麻衣子選手のジャンプ姿に目を奪われた。
滑走タイムを競うアルペン競技に対して、フリースタイルスキー競技はターンやエアなどの技術を競う。スロープスタイルは、障害物やジャンプ台を攻略しながら、繰り出す技の難易度や完成度を評価する種目だ。
「あの動画を見たときに『これだ!』と思いました。辻選手は日本の女子の中でもずば抜けたジャンプ技術を持っています。彼女がどこで育って、誰に指導を受けているのか気になってネットで調べたら、白川塾の白川大助コーチに辿り着いたんです」
すぐさま塾の門を叩いた鈴木選手は、辻選手と同じスロープスタイルを考えていた。しかし白川コーチとの話し合いの中で、同じフリースタイルスキーの「ハーフパイプ」に転身することを決意する。この種目は、パイプ(円柱)を半分にカットしたような斜面を滑りながら、左右の壁でジャンプしてダイナミックな空中技を競う。
「選んだ理由は、オリンピック競技種目に採用される可能性が高かったからです。初めて滑った時は、怖さより楽しさの方が大きかった。同時に思ったよりできないっていう現実にもぶつかりました。どんどん滑って、もっとうまくなりたい気持ちが強かったですね」
スキー競技に復帰したことで生活はガラリと変わった。生活費に加え、レッスン代や遠征費などが重くのしかかる。週5~6日のアルバイトを朝8時から夕方5時までこなしながら、毎日夜10時までトレーニングをする、超過酷な暮らしを送った。
「食事もとらず、疲れて寝ちゃうこともよくありました。若かったからできたことではありましたが、たくさんの経験を積んだいま振り返ると、それじゃダメだったんだって気づきました」小学5年生の時にアルペン競技を本格的にスタートした鈴木沙織は、地元のスキー名門校に進学し、練習漬けの毎日を送る。しかし、高校最後の年に出場したインターハイでまさかの転倒。卒業後は美容師となるも、スキーを諦めきれず復帰を決意する。
「私はこんなに愛されている」 どん底で芽生えた感謝の心
当時はウォータージャンプとトランポリンを使った実践的な練習をひたすら行った。アルペン競技で培ったスキー技術が活き、ハーフパイプを始めて数年で世界に通用するレベルに成長する。ところが2012年暮れ、鈴木選手に悲劇は起こった。
「ソチオリンピック出場の可能性も見えてきた時、右ひざ前十字靭帯を断裂する怪我を負いました。大技が成功し、多少のうぬぼれもあったのか、大技とは関係のない簡単なジャンプで着地ミスをしてしまったんです」
出場予定だった大会を欠場し、練習先のアメリカから急きょ帰国する。鈴木選手にとって、手術を伴う大怪我を負ったのはこれが初めてだった。地元山形の病院に入院した彼女の胸の内には、意外な思いがあった。
「次の試合で結果を出せばソチに出場できるかもしれない。でもその試合の遠征費を用意できない。精神的にも金銭的にも追い込まれていました。出られなくて悔しい半面、もうお金の心配をしなくていい安堵感もあって……。複雑な心境でした」
10か月に及んだ辛い療養生活は、持ち前のポジティブさで積極的に取り組めた。そんな鈴木選手を支えたのは、家族やコーチ、そして応援してくれる周囲の人たちだった。
「私ってこんなに愛されていたんだなっていうのは、怪我をして気づきました。焦らずゆっくり自分を見直そう。目標は次の平昌オリンピックだっていうことを再確認して、エンジンをかけ直しました」
300人を前に就職プレゼン 思いを受け止めてくれたのは
怪我を克服した鈴木選手は着実に実力を伸ばし、2016年にワールドカップ初出場を果たす。ところがその直後、またも怪我を負ってしまう。彼女は約1か月半のリハビリ生活を送る傍ら、社会人としての自分を売り込むことを思いつく。
「今できることはなんだろうと考えた時、就職活動しかないと思いました。アルバイトをしながらの競技生活には限界を感じていたし、今後ずっとスキーを続けていくためには安定した生活を送る必要がありました」
日本オリンピック委員会(JOC)の就職支援制度「アスナビ」を通じて、競技生活に理解のある企業の社員として働くことを希望する。最初の関門は、大勢の採用担当者の前でのプレゼンテーション。スピーチに苦手意識を持っていた彼女は、時間を見つけては練習に励んだ。
「本番では約300人の前で自己PRしました。有難いことに数社から声をかけていただいて、城北信用金庫の熱意にとくに心を打たれました。その後はトントン拍子に入庫が決まって。きっとタイミングも巡り合わせも良かったんですね」
安定した職を得たことで、時間とお金に余裕が生まれた。従来からこなしていたスキー技術のトレーニングだけでなく、怪我に強い身体を作るフィジカルトレーニングがメニューに加わった。十分な睡眠と食事を取る時間を確保できるようになったことも大きな変化だった。
「以前はトレーニングに行く交通費も出せないほど、カツカツの生活を送っていました。今の私がこうして競技に専念できるのも、地域の皆さまや職員の皆さん、いろんな方々の支えがあるから。自分のためだけのスキーじゃないっていう思いがあるからこそ、頑張れています」
波乱万丈のスキー人生を送ってきた鈴木選手。憧れの舞台を経験した今、競技者として目指すものとは何なのか。
「今やるべきことを自信が持てるまでとことんやりたい。子どもたちにも『こんなに努力したから、ここまで来られたんだよ』って胸を張って言える――。そんな競技者になりたいと思います」
どんな困難が押し寄せても、前向きに立ち向かう強さが鈴木選手にはある。再び夢の舞台に立つために、今ある目標に向かって一歩ずつ着実に進んでいく。